酒屋日記 

小川酒店@滋賀浜大津、京阪電車沿いの酒屋のつぶやき

荒川豊蔵

荒川豊蔵資料館は山の奥深いところにひっそりとたたずんでいました。豊蔵さんはもともとは絵描きを目指してはったようで、生き生きとした魚や桃の絵も展示されていました。絵も焼き物もなにか・・・・・とてもそこはかとなく優しい感じがして、ようわからへんのですけど、ものすご惹かれました。そして資料館の人がこれまた温かな人で、いろいろ質問しても 嬉々と・・・丁寧にしかも的確に答えてくれはるのです。よほど豊蔵さんのことがお好きなのか、またはお孫さんか何かの血縁がおありなのか・・・北大路魯山人と親交の深かった豊蔵さんですが、かわりもので気の短かった魯山人とはまったく性格が反対の温雅な人やったとも聞いたことがあります。

酒造家がお酒でいうと酒米・・玉栄や山田錦や渡船をどう美味しいお酒に仕上げるか努力されているように、陶芸家は、土地土地の土もそうですが、染付け・志野・織部釉薬によって焼き方さらに窯の設計までもが工夫研究してはります。そして豊蔵さんは志野焼再興に生涯をかけて取り組まはったのでした。志野焼は登り窯ではなく単室の穴窯が研究の結果相応しかったようで、この志野焼きはすべて単室の穴窯で、そして松割木で4日間焼かれると、とろりとしたやさしい乳白色の志野焼きが生まれるのであります。

 またちょっと感動したのですが・・・豊蔵さんが好んで使ってはった言葉「随縁」。随縁とは、仏語で「縁に随う(したがう)こと」とか「縁に従って物事が生じること」という意味。豊蔵さんが歴史をくつがえす大萱の志野古窯を発見するきっかけとなった事件も紛れもない隋縁やと・・・私は今は亡き豊蔵さんにの字になってしまいました。

北国和子先生が今回の旅で、仰山の中から、この資料館とそして次に書こうと思っている 豊蔵さんのお孫さんの水月窯を選らばはったその理由がようわかりました。さす和子先生やこれは隋縁という豊蔵さんの志野焼。愛する奥さんに贈らはったそうです。
奥さんも幸せ者や